何年も前の自分は毎日
どんな生活をしてたっけ?と
ふと何かをきっかけに思うことがある。
コロナ禍前は、家族の状況も
複雑なのは昔からそうでも
今とはまた違ったな、あの頃はまだ
好きなことを楽しめる時間や
自分の心を休められる時間が
今よりはあったなぁと、すごく遠くの
出来事を思い返すかのように思い出す。
大好きな人が地元を離れるまでは
きっとその辺ですれ違ってた。
それくらい身近な所で育った人。
当時は大好きな人のことを
知らなかったからもしすれ違ってても
気づけなかったのを今更すごく
悔しく思ったりする。
大好きな人が仕事で違う地域に
引っ越してから、大好きな人が地元に
いた頃にもっと仲良くなれてたら、
普段から普通に会えるような
親しさまで進展できてたら、
今遠くに住んでても気持ちの上で
全然違ったのかもしれないなと思う。
それでも、そもそも大好きな人と
地元が同じとか他にもあれこれ
いくつも共通点があったからこそ
ここまで仲良くなれてるとも言えるし、
何年も前を思い返すと
こんな近くに大好きな人がいることさえ
知らずに過ごしてたと考えたら
今に感謝しないとなと改めて感じる。
今に始まったことではなく
自分が育ってきた、過ごしてきた
家庭環境は本当に暴力的で、
さすがに生き延びるためにも逃げようと
思いながらも、自分の体調面や
暴力的ではない家族の事情などもあって
今でもまだ逃げ切れてはいない。
そもそも自分時間そのものが少ないから
なかなか少しずつしか進まないけど、
仮に安全に逃げられたとしたら
どの辺になら住んで生活していけるかを
考えたり調べたりもしてる。
そんな中で今日、その事情や計画とは別に
大好きな人が今住んでる町の辺りの
賃貸物件や特定の施設近辺について
調べる機会があった。
大好きな人が今住んでる町は
自分にとっても昔から関わりが深くて
地元を除けばたぶんその辺りが一番
土地勘があってなじみもあって
知り合いも多くて慣れてるかもしれない。
だから、住所の町名を見ても
「あーあそこかー!」ってすぐ分かるほど。
たまたま縁あって昔から関わりが深いけど
たぶん地元以外に転校とか以外で
そういう町があるのは珍しいんかも。
かつての自分ならもっと現実的に
「じゃあ〇〇県に住むことも考えよう」
と思えたかもしれない。
だけど、その町の知り合いたちは
ごく一部を除いて自分の家庭環境について
全く知らないし、その知ってる一部も
正直すごく信用できる人かといえば
そうでもないかもと思い始めてて
(家庭環境については話の流れ上
言わないと話がおかしくなるから
最低限だけは話したけど)
他の知り合いたちも
いい人かもしれないけど
いざという時に頼れるかっていうと
そこまではない。
ちょっと繋がりが深いからって
安易にそこに移り住んだりは
今の時点では、まだできないかな‥。
大好きな人が住んでることで、
その町がより特別な町になった。
でも、まだ付き合えてもないのに
いくら昔から関わりがあるからって
そんな押しかけるみたいにその町に
引っ越すなんてことは今の時点では
考えられないし、考えたらダメなんよな。
こんな時、自分か相手をどんなに好きでも
現実の上ではただの同じ地元の、
他の人たちよりはちょっとお互いを
知ってる同士という程度というのを
すごく実感してしまう。
大好きな人も甘いものが好き
というのを初めて知った時、
一緒で嬉しいなと思った。
それで、ふとどんなスイーツが
似合うかなーと思って考えてたら
一番初めに浮かんだのがたい焼き。
しかもひらがなで「たいやき」の方が
更に似合う感じ!
(どんな感じやねん‥笑)
毎日、家族に自分の好きなことを
批判されたり否定されたり
言いがかりをつけられたり禁止されたり、
自分が育ってきた家は本当に色々と
おかしいから‥本当にしんどい。
自分が趣味とかも全て制限された結果、
感情をなくしてしまったとしても
家族の面倒を見てくれさえすれば
たぶん家族にとっては一番都合がいい、
という思惑が透けて見える気さえする。
趣味でさえこの状態。
自分が本当に大切な人と付き合って
一緒になるというのは本当に
今の時点では眩しいほど高すぎる壁。
意識的に前向きにプラス思考でいないと、
日々家族に激しい言葉で傷つけられて
心が壊れてしまいそう。
恋愛以前に、まず自分の生活を
人として安心して生きていけるところまで
持っていくのが先にも思えてくる。
大好きな人を好きと自覚した年から
考えても今はその当時に何となく
想定してた以上に、大好きな人を
ますます好きになってしまってると思う。
自分みたいに人間不信の塊を隠すように
表向きだけは元気いっぱい笑って
生きてる人にとって、そんなふうに
誰かに想いを馳せること自体がもう
奇跡のように感じられるのに、
そんな奇跡みたいなことを
“なってしまってる”なんてまるで何か
悪いことをしてるようには
捉えたくはない、と考えてるけど、
それでも現状は幸せというよりは
色んなことを考えて悩みが多い
というのが紛れもない本音な気がしてる。
感覚で言えば、せっかく座り心地のいい
体だけでなく心ごと抱きしめられるような
椅子を用意してもらってるのに、
意地でもその背もたれに背中を
委ねてしまうことは許されないと
一人で勝手に決め込んでしまってる、
そんな毎日を過ごしてる。
相変わらず、大好きな人を恋愛感情で
好きという気持ちは誰にも言うことはなく
ただ一人で心の痛みを感じながら
必死に前を向いて生きてる感じがする。
自分の両親は、片方はかなり自分勝手で
わがままで感情のままに生きるタイプで、
もう片方は明らかにおかしいことをされたり
傷つけられてもその相手にそれが嫌とは
言えずに黙って尽くすけど
子どもとか自分より弱い立場の人には
自分の考えや価値観を押し付けるタイプ。
その、自分勝手で感情のままに生きてる方の
‥自分に暴力的な行為を平気でしてきた方の
親は、結婚してても人の親であっても
関係なく恋愛に本当にだらしなくて
貞操観念がなさすぎる人で、
自分は小さい頃からその親の恋愛‥とも
言いたくないけど異性問題にたくさん
振り回されてきた。
親がその時にハマった異性に貢ぎすぎて
家は借金だらけ、お金も数十円しかない、
親の愛人が家まで来て暴れて
危険なために学校に行けないとか
親の愛人が問題を起こしたり
逆に親が気に入った異性にしつこく
連絡しすぎてトラブルになったりして
どっちにしろ警察沙汰になったり、
親が投げやりになって一家心中の危機とか
これまでに本当に色々あった。
見た目が特別整ってるとか
そんなことは全然ないけど、性格的に
人とコミュニケーションを取るのが得意な
自分はそれなりに恋愛も得意と
思われることも多い気がする。
でも、実際には恋愛には本当に
親のせいというか育ってきた環境が
自分で言うのもおかしいけど壮絶すぎて
恋愛というものにいいイメージが
全然なくて、あえて自分から怖がって
遠ざけてきたような気さえする。
ネット全盛社会に生きてることも、
便利ではあるけど、時代が発達しすぎて
シンプルに“人と向き合う”
“一人の人を真剣に大事にする”ことが
こんなに難しい時代もないように思える。
自分はこれまでに色々あったからか
そういう“今の時代流されがちなこと”に
足を留めて大事なことに気づけるのかも
しれないけど、本当に大事なことほど
今の時代はないがしろにされつつある
そんな気がして仕方ない。
そう言う自分も、昔の時代の
携帯とかがなかった世代は知らないし、
もっと年上の人たちから見たら充分
今時の育ちと思われるかもしれない。
だけど、親がネット上でも
独身を装って異性を物色して
愛人を何人も作ってるようなのを見て
育ってきたせいか
(というか確実にその影響は大きい)
本当は真面目な人や誠実な人もたくさん
世の中にはいると頭では分かってても
ちょっとしたことで「この人も自分が
知らないところではネット上で好き放題
振る舞ってるのかもしれない」と
何の根拠もなくても考えてしまったり、
ネットというものが人間不信を更に
自分にとっては加速させてるように思えて
だけどこの時代に生まれたら
このネット全盛の中を生きるしかなくて、
それがすごくしんどいなと
めちゃくちゃ苦しく感じる時がよくある。
1本の包丁があったとして、
その包丁で人を元気にする料理を
作る人がいる一方で、
人を暴力的に傷つけるために使う人もいる。
ネットも、人の生活を助けたり
日常の負担を軽くしたり
いい意味でも役に立ってるのは分かってる。
実際、自分がリアルでは言えないような
こういう恋愛の話をブログに書けるのも
今の時代に生きてるから。
だけど、自分みたいに人間不信を
植え付けられて育った人にとっては、
ネットというものは人を簡単に裏切ったり
傷つけられる手頃な手段であり武器のように
思えてしまうし、今の時代はあまりにも
ネットが幅をきかせすぎてる気がする。
恋愛も、ネットが発達しすぎて
より複雑になってる部分もあると思う。
ネットがあって救われてる人も
いると思うから絶対そうとは言えないし、
感じ方は人にもよると思うけど、
自分個人的には、ネットがあったとしても
SNSとか色々、ここまで発達しない方が
人の心に余白があったというか
もっと温かくてまっすぐな何かが
ちゃんとある世界に生きられたのかなと
そう考えてしまうことが本当にある。
大好きな人は、あんまりネットを
使わないというか、人との交流をするの自体
あんまり好きではない人。
だから、自分の親とは違うし、
時代に関係なく自分が好きになった人を
信じればいいのかもしれないけど、
小さい時からずっと人間不信で生きてきて
人を信じるとか、正直よく分からない。
恋愛というよりは家庭内のことが大半でも
これまでたくさん傷ついてきて
もうこれからは傷つきたくない、
あんな思いは一生したくないという気持ちが
大好きな人を大好きな自分を時々
全力で止めようとしてくるのが苦しい。
↑この前、家の用事での外出先で
ふと見かけたからつい買ってしまった
焼きりんごバウム。
このバウム大好きで色々食べてるけど、
焼きりんごはまだ食べたことない。
昨日、知り合いから夕方
いきなり連絡があった。
その知り合いが普段連絡してくる時間と
少しズレてるから珍しいなと思ったら、
大好きな人が今住んでる町の商業施設に
大好きな人とその同僚たちが来てるのを
知り合いがたまたま見かけたらしい。
「〇〇くん(大好きな人)と□□くんがいて
他にもいるのかなと思ったら
△△くんもいて、△△くんが〇〇くんと
□□くんに話してたよ」
その△△くんは、おそらくその支社でも
かなりよく喋るタイプの人で、
知り合いがそう言うのを聞いただけで
その様子が伝わってくる気がした。
大好きな人は、どっちかと言うと
あんまり人と連れ立って出かけたりは
積極的にはしないタイプ。
それでもやっぱり人間関係とか
気を遣ってるのかなあと思う。
同じ支社で、毎日会社で顔を合わせて、
□□くんはそうでもないけど
△△くんはもうずっとその支社に長くいるし
年齢的にも結構年上で、
遠出ならまだ断れても、その町に住めば
だいたい何かを買うとなれば行くであろう
身近な商業施設なら、仮にあんまり
気が進まなくてもたまには行くしか
ないよなあと思ってしまった。
知り合いが笑いながら何気なく言ったことで
また1つ、大好きな人との共通点を知った。
それは自分にとってはすごく嬉しいこと!
だけど、大好きな人と同じ市内に住む
知り合いにとっては日常のことでも
遠く離れて暮らす自分には
その商業施設自体は知ってても
行ったこともあって身近でも
「日常にそれがあるか」と言われると
決してそうではないと考えると、
やっぱり遠い地域に住んでるというのは
すごく悲しいことに思えてしまった。
それと、距離どうこうには関係ないけど、
自分にとってトラウマを連想させるような
内容がその出来事の中にあると、
知り合いにも大好きな人にも誰にも
言えないけど心がとてもしんどくなる‥。
簡単に話せるようなことではないし、
そういうトラウマとかって誰にでも
打ち明けるようなものでもないから、
知り合いにも何でもないふうに
普通に頑張って会話したけど。
誰かを本当に好きになるというのは
楽しかったり嬉しかったり
幸せな気持ちになったり。
でも、それだけではなくて
苦しかったりしんどかったり辛かったり
そういうものもたくさんある。
かつての自分が時々行ってた場所に
昨日、すごく久しぶりに行った。
行った瞬間、本当に懐かしくて
当時の自分が毎日頑張ってたことを
改めて思い出した。
大好きな人と知り合う前のことって
自分にとってはもうかなり昔のような
気持ちになってしまう感覚があって、
その懐かしい場所もまるで昔の
ドラマとかを見るような気持ちで
見てしまってたけど、
あの頃毎日頑張ってたことは
大好きな人の職種にも深く関わることで
だからあの頃には戻れなくても
あの頃頑張ってた結果は意外な形で
今に繋がってると感じたかなあ。
家族という温もりを知らずに育って
ただ居場所が欲しい、
生涯を通して自分の心を安心して
置いておける場所が欲しいと
それを強く願いながら、
自分が頑張れることは全力で頑張る、
自分が人より少しでも得意かなと
思える何かがあればそれを磨こうと
ある意味一生懸命になりすぎる‥
今の自分よりも純粋の純度がすごく
高かったあの頃の自分を思い返して
ちょっと、心が痛くなってしまった。
今はあの頃よりも悟ってるというか
自分がいくら正しくても
家族の歪んだ関係性になんて
立ち向かったって仕方ないと分かってるし、
自分がどう振る舞ったって根本的に
家族の暴力的な行為が止むことは
きっとないと気づいてしまってる。
それは、自分が仮に特技を活かして
ちょっと生き場所を見つけたところで
これまでの心が回復するような
そんな単純なことではない、ってことで。
大人になったといえば
それはそうなのかもしれないけど、
懐かしい景色を久しぶりに見たことで
今の自分を客観的に見た気がする。
大好きな人と知り合ってなかったら
自分はどうなってたのかな。
きっと、もっと孤独で毎日がしんどくて
道しるべもない中を光を求めて
必死に傷だらけで生きてたと思う。
ただ、自分が相手を大好きなだけで
付き合えてもない、将来の約束もない、
そんな不安定な関係に心を委ねたり
寄りかからせるのは危ないって
自分でもよく分かってるけど‥、
それでも大好きな人がいてくれて
少しでも希望があるならそれを信じたいと
思えることが生きる支えになってるのには
本当に感謝しないといけないなって。
今、大好きな人が働いてる支社関係で
普段から良くしてくれてる人が
「〇〇にとって、遠く離れた地元から
支えてくれてるENAはすごい力や支えに
なってるはずだよ」と言ってくれたけど、
もし本当にそうやって力や支えに
なれてるなら嬉しいなと思うしそれを願う。
恋愛がどうこう以前に、とにかくまずは
今の状況を抜け出すのが最優先と
思ってる自分にとっては、大好きな人が
「この支社に来た時は本当に不安で、
上司や先輩と話すのも緊張したり
慣れなくて大変な思いをしたけど、
今は自分の予想以上に上司が
大事な仕事を任せてくれたりして
毎日、今日も頑張ろうって思えるし
仕事が楽しいって感じられる」
というような話をしてるのを
もちろん嬉しいとか良かったと思いながら
「その日一日を過ごすだけでも必死で
何とか生き抜いてる自分と
〇〇(大好きな人)は恋愛どうこう以前に
人として生きてる世界が違うのかな」
とものすごく考えてしまったりもするけど、
昨日久しぶりに懐かしい場所に行って
もうこれからはこんな複雑な気持ちではなく
昔のことも笑って振り返られるくらい
夢や目標を叶えて心も強い人に
なっていきたいと心底思った。
自分の人生の中で一番、
大好きな人に近づけた日の空。
いつもそばにいられる人たちからしたら
「え?いちいちそんなことに感動して
空なんか撮るの?」と引かれたり
するのかもしれないけど‥笑、
自分にとっては本当に心が感動で
いっぱいになった。
昨日、少人数派かなと思える恋愛を
してる人の記事を読んでたら、
そこには当たり前のように否定的な
コメントがついてて。
その恋愛をしてる人たちが
テンション上がってきて非常識なことを
したとかそういうことに対して
否定的、批判的に言われるならそれは
恋愛関係なく人間的な問題で
誹謗中傷でなければやむをえない
とも思うけど、そうではなくて
“そういう恋愛をしてるのが気持ち悪い”
というのを前提としてるというか、
少人数派なら別に何言ったっていいでしょ、
という歪んだ言い訳のもとに
ストレス発散の場所にしてるとしか
自分には思えなかった。
自分は小さい頃から、親の不倫で
金銭的にも精神的にも本当に
大変な思いをして苦痛を味わってきた。
恋愛をする上でも、つい相手を
疑ってしまったり、必要のないことで
あれこれ悩んで疲れ果ててしまうのは、
親の貞操観念のなさ、倫理的な問題も
たぶん、とても大きい。
それもあって、人の道に背いたことや
外れたことには正直すごく嫌悪感があるし、
そういう人になら何を言ってもいいとは
思わないけど、自分は人間として
曲がったことはしたくない。
逆に言えば、たとえ少数派でも
それが少数派なだけで人の道に
背いたり外れたりしてないなら、
その人たちに対して批判や非難をするのは
おかしいと思うし、理不尽に思う。
自分自身の価値観にそぐわないなら
自分自身はしない、それでいいはず。
誰にも迷惑をかけてないのに
おかしい!気持ち悪い!と言われても
そうやって今は言ってる人だって
どういう形でいつそういう立場になるかも
分からないのに、何でそんな偉そうに
人を傷つけるようなことを言えるのかなぁ。
詳しく書いてしまうと、知り合いたちに
身バレの可能性があるから
ここは自分の恋愛を素直に打ち明ける、
残す場として大切にしたくて
そのために詳しい事情を細かく全部は
書けないけど、少数派と思われる人たちの
恋愛に関する内容をネットで読む度に
世間は大人数派には優しいけど
少人数派には当たり前のように冷たいな、
ごく普通に何気ない日常を幸せに
生きることさえ大変なのかな、
と本当に悲しくなる。
これが、その人を好きという理由で
未成年と恋愛してるとか
相手や自分や両方に家庭があるとか
好きだけでは済まされない問題があって
世間に後ろ指をさされたり
批判や非難されたり
そういうのは仕方ないとは思うけど
そうではないのにな‥。
人としては何も間違ったことはしてない、
それでも堂々とこの人を好きと言えない、
それが本当に苦しくて辛い。
そういう世の中というのを
自分はもう知ってしまってるから、
大好きな人を好きなことも
リアルの世界では誰にも言わない
(言えない)し、大好きな人と自分が
共通点や似てる部分が多いことで
大好きな人の話題に周りでなった時も
“人として”好きというのは表しても
“恋愛の意味で”好きというのは
とても言えるような状況ではないなと
無難で安全な振る舞いをいつも意識する。
自分は昔から個性的というか
流行りの物にはあんまり興味がなくて
それより自分が本当に好きな服を着る、
本当に好きな音楽を聴く、
本当に好きなことを趣味にする‥
そういう子ではあったはず。
でも、そういう「あの子は個性的」
「流行りには目もくれない少数派」
というのと、恋愛で少人数派というのは
また重さが全然違うなと感じる。
何も悪いことをしてなくても
今のところはただ恋愛感情を
ひた隠しにして隠れるように生きてる。
目立つつもりはないけど、
少しでも目立ってしまえば
「そんな恋愛してるくせに」と
世間からの攻撃が向いてくるのかと思うと、
正直本当の意味で自分のことを
何も知らない周りにそんなふうに
言われる筋合いはなかったとしても
小さくなって遠慮して生きていかないと
いけないのかなと終わりのない葛藤を
心の中に感じてしまう。
せめて、自分は心の中で胸を張りたい。
こんなに大好きな人と出会えたことに。
普段、自分が育った家庭環境とか
そういう深い話をリアルの世界の
知り合いに話すことはない。
(このブログにはちょこちょこ
書いたりはしてるけど)
でもこの前、話の流れから
どうしてもその家庭環境の話をしないと
話の内容がおかしいという場面があって、
大好きな人の仕事関係と少しでも
関わりがある人にはあんまり
本当はそういう話はしたくなかったけど
そういう仕事関係の人たちとの
関係性が悪くなるのもそれはそれで
困るなと思ったし、ここまでならという
自分なりの線引きの範囲内だけは話した。
「だから、自分はあんまり家族とか
家っていうものにいい印象がなくて、
誰かと仲良くなるのは得意でも
そこから恋愛に発展するのは難しくて」
と言った自分にその知り合いが
「ENAはさぁ、〇〇(大好きな人)みたいな
性格の人が絶対合うと思うんだよね。
〇〇みたいな人、いいんじゃない?」
と即言ってきた。
「えっ、〇〇みたいな人合いそう?」
って自分がその後言ったら
「うん、間違いなく合うじゃん」って。
自分は小さい時から家族関係にも
色々あったせいか、人間関係にすごく
クールなところがあると自覚してる。
だから、たとえ誰かを好きになっても
客観的な視点を良くも悪くも
手放せない人な気がしてる。
それでも、自分の視点ではない
第三者目線で自分と大好きな人は
どんなふうに見られてるのかな、
価値観や生き方が合うと思ってるのは
自分の独りよがりなのかな?と
特にこの数ヶ月は考えてたから
思いがけず話の流れから
知り合いが本音でそう言ってきたのを
聞けたのは良かったし、嬉しいと思った。
「〇〇みたいな人」はあくまでも
同じ枠に入る人間っていうだけで
〇〇本人ではないもんな。
自分は大好きな人本人がいい。
大好きな人と恋愛して
大好きな人と一緒に幸せになりたい。
そのために、今できることは
どんなに目には見えない小さいことでも
一つ一つ丁寧に積み重ねていきたい。
2025年9月20日。
きっとずっと覚えてると思う。
大好きな人を好きになってから
これまでで一番近くにいられた日。
近くにいられたといっても
狭い場所で肩を寄せ合って
一緒に何かを楽しんだりとか
そこまでの近さではなかったけど。
それでも、これまでの自分にとっては
本当に忘れられない
特別で輝いた一日になった。
普段、家の都合もあって
純粋に自分の休日と呼べる日はない。
だから、もちろん
自由にどこかに出かけるのも難しい。
家族の機嫌も含めて色んなタイミングが
合わなければ本当に何もできない。
そんな環境の中で
こんなに長く大好きな人を
同じ空間で見ていられるのは
本当に有り難くて嬉しい出来事で
自分にとっては夢のような時間。
たまたま目が合ったりとか
こういう仕草するのかとか
そういうのは同じ空間にいないと
できないこと、分からないこと。
自分の状況を考えたら
恋愛どうこうよりまずは心を保って
生きてるのがやっとという感じでも、
また次の目標に向かって
それを信じて頑張りたいと思う。