きっと伝わったあの日の答え
大好きな人と同じ学校出身の
親戚のお通夜とお葬式の話。
自分は、今回亡くなった親戚には
良くしてもらったと思ってるし
感謝もしてるけど、基本的には
これまで親戚たちには本当に
ひどいことをたくさんされてるから
親戚の場で正直全然心は開いてない。
お通夜では久しぶりに会った
親戚たちもいた。
挨拶はちゃんとするけど、
それ以外はできる限り個人的な内容に
繋がるような会話にはならないように
同じ輪の中に長時間いないとか
できる限りの工夫をするようにした。
自分の親が、自分が小さい頃から
「ENAには何を言ってもいい」というふうに
親戚のストレス解消の道具のように
使われても何も言わないというか、
ごく普通にそれを許す空気があった。
だからか、長い間自分は
いじられキャラというと軽い言い方に
なりすぎるくらい悲しい目に遭ってきた。
考えたら、自分なりに頑張って生きてて
親戚にそこまであれこれ
批判や非難される筋合いはない。
これを機に‥と言ったら
亡くなった親戚に失礼な言い方に
なってしまうかもしれないけど、
今回以降はもう
仮に何か失礼なことを言われたら
「〇〇(亡くなった親戚)を偲ぶために
ここに来てるんであって、
自分の色んなことを話すために
来てるわけではないから」とだけ言って
その話題にそれ以上は入られないように
凛とした態度をとろうと決めてた。
「何かENAに好き放題言えなくなったな」
と感じたのか、親戚たちから何か
自分が攻撃されることはなくて
それにはホッとしたけど、
お通夜の後にみんなで話してる時間帯に
少し離れた場所で親戚の一部が
自分自身や子ども、孫、子どもの友達まで
持ち出してあれこれ自慢してる姿を見て
何のために来てるのか?
亡くなった親戚を偲ぶよりも
自分の自慢のため?
自分だけに留まらず、子どもとか孫とか
更には子どもの友達のことまで持ち出して
必死に自慢するのは人として醜いな‥と
思ってしまった。
そこで他の親戚にマウントとって
自分はすごいでしょ?という立場に
立つことに何の意味があるのかな。
そういう場で、もし誰かに聞かれて
少しでも個人的なことを話したら
そこからまた色々詳しく聞かれたり、
その本人にはそのつもりはなくても
仮に親戚から見て何か周りの友達とかに
自慢になる要素があったら
勝手に自慢に使われたりもするのが
目に見えてる気がする。
自分は最低限の話以外は
親戚にも友達にも知り合いにも
しないようにしてるけど、
自分にとっては一番の最善に思えた。
親戚同士で親しく連絡を取り合ったり
してる人たちなら余計に
誰かの噂話とか悪口とかもすごそう
と今日改めて考えさせられたし。
家族に対しても、すごく個人的なことは
普段から話さないようにしてるから
そうやって無難な話だけに留めるのは
そんなに無理なくできる気はする。
大好きな人のこともその親戚の遺影には
実は大好きな人がいて、その人が
〇〇(亡くなった親戚)の後輩ってことも
心の中では語りかけたけど、
誰に話すこともなくただ静かに
“必ず大好きな人の隣で堂々と
人生を過ごせる人になろう”と誓ってた。
亡くなった親戚は、一瞬びっくりするほど
冷たくなってしまってたけど、
「ありがとう」と言って触ったその手で
右ポケットに入れてる大好きな人の写真が
入ったパスケースの写真部分に触れた。
自分は親戚のことでも苦労してきたけど
大好きな人の先輩であるこの親戚からは
学ぶことも励まされることも
たくさんあったと、いつか
大好きな人にも伝えられたらと思う。
棺の中に、亡くなった親戚への
手紙を入れた。
手紙を入れたいなと思ってたら
今回の法事をまとめてくれてる親戚が
手紙も入れてもいいということで
事前に用意してた。
(自分が将来的にいい恋愛ができるような)
「いい人がいたらいいなあ」に対する
実は大好きな人がいること、
家族は知らないけど
地元で2人で会ってること、
その親戚と大好きな人は同じ学校の
先輩と後輩ということ、
恋愛する上で壁があって悩みはあるけど
その人とずっと生きていきたいこと
という、自分の答えを
もうその親戚が亡くなってからの
棺に入れる手紙にはなってしまったけど
伝えられたことはまだ良かったのかな
とも思う。
棺に手紙を入れるその内容は
ちゃんとその亡くなった人に伝わるとか。
もしかしたら誰もその真偽は
分からないのかもしれないけど、
自分は信じたいな。
ちゃんと伝わった、って。
親戚のお通夜とお葬式の話。
自分は、今回亡くなった親戚には
良くしてもらったと思ってるし
感謝もしてるけど、基本的には
これまで親戚たちには本当に
ひどいことをたくさんされてるから
親戚の場で正直全然心は開いてない。
お通夜では久しぶりに会った
親戚たちもいた。
挨拶はちゃんとするけど、
それ以外はできる限り個人的な内容に
繋がるような会話にはならないように
同じ輪の中に長時間いないとか
できる限りの工夫をするようにした。
自分の親が、自分が小さい頃から
「ENAには何を言ってもいい」というふうに
親戚のストレス解消の道具のように
使われても何も言わないというか、
ごく普通にそれを許す空気があった。
だからか、長い間自分は
いじられキャラというと軽い言い方に
なりすぎるくらい悲しい目に遭ってきた。
考えたら、自分なりに頑張って生きてて
親戚にそこまであれこれ
批判や非難される筋合いはない。
これを機に‥と言ったら
亡くなった親戚に失礼な言い方に
なってしまうかもしれないけど、
今回以降はもう
仮に何か失礼なことを言われたら
「〇〇(亡くなった親戚)を偲ぶために
ここに来てるんであって、
自分の色んなことを話すために
来てるわけではないから」とだけ言って
その話題にそれ以上は入られないように
凛とした態度をとろうと決めてた。
「何かENAに好き放題言えなくなったな」
と感じたのか、親戚たちから何か
自分が攻撃されることはなくて
それにはホッとしたけど、
お通夜の後にみんなで話してる時間帯に
少し離れた場所で親戚の一部が
自分自身や子ども、孫、子どもの友達まで
持ち出してあれこれ自慢してる姿を見て
何のために来てるのか?
亡くなった親戚を偲ぶよりも
自分の自慢のため?
自分だけに留まらず、子どもとか孫とか
更には子どもの友達のことまで持ち出して
必死に自慢するのは人として醜いな‥と
思ってしまった。
そこで他の親戚にマウントとって
自分はすごいでしょ?という立場に
立つことに何の意味があるのかな。
そういう場で、もし誰かに聞かれて
少しでも個人的なことを話したら
そこからまた色々詳しく聞かれたり、
その本人にはそのつもりはなくても
仮に親戚から見て何か周りの友達とかに
自慢になる要素があったら
勝手に自慢に使われたりもするのが
目に見えてる気がする。
自分は最低限の話以外は
親戚にも友達にも知り合いにも
しないようにしてるけど、
自分にとっては一番の最善に思えた。
親戚同士で親しく連絡を取り合ったり
してる人たちなら余計に
誰かの噂話とか悪口とかもすごそう
と今日改めて考えさせられたし。
家族に対しても、すごく個人的なことは
普段から話さないようにしてるから
そうやって無難な話だけに留めるのは
そんなに無理なくできる気はする。
大好きな人のこともその親戚の遺影には
実は大好きな人がいて、その人が
〇〇(亡くなった親戚)の後輩ってことも
心の中では語りかけたけど、
誰に話すこともなくただ静かに
“必ず大好きな人の隣で堂々と
人生を過ごせる人になろう”と誓ってた。
亡くなった親戚は、一瞬びっくりするほど
冷たくなってしまってたけど、
「ありがとう」と言って触ったその手で
右ポケットに入れてる大好きな人の写真が
入ったパスケースの写真部分に触れた。
自分は親戚のことでも苦労してきたけど
大好きな人の先輩であるこの親戚からは
学ぶことも励まされることも
たくさんあったと、いつか
大好きな人にも伝えられたらと思う。
棺の中に、亡くなった親戚への
手紙を入れた。
手紙を入れたいなと思ってたら
今回の法事をまとめてくれてる親戚が
手紙も入れてもいいということで
事前に用意してた。
(自分が将来的にいい恋愛ができるような)
「いい人がいたらいいなあ」に対する
実は大好きな人がいること、
家族は知らないけど
地元で2人で会ってること、
その親戚と大好きな人は同じ学校の
先輩と後輩ということ、
恋愛する上で壁があって悩みはあるけど
その人とずっと生きていきたいこと
という、自分の答えを
もうその親戚が亡くなってからの
棺に入れる手紙にはなってしまったけど
伝えられたことはまだ良かったのかな
とも思う。
棺に手紙を入れるその内容は
ちゃんとその亡くなった人に伝わるとか。
もしかしたら誰もその真偽は
分からないのかもしれないけど、
自分は信じたいな。
ちゃんと伝わった、って。
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